8/30 (火) 境界線をとらえる
人工的な境界
街に出てみると、様々な境界に遭遇する。
仕切りや線で区切られていたり、そもそも区切られてはいなくて、地図などの書類上で区切られているだけということもある。
例えば、市区町村の境界は、河川を境として決められている場合がある。
だが、河川そのものは一体どこに属しているのだろうか。
人工的な境界線は、それによって物理的に区別されているわけではなく、あくまでルールの一つである。
では、人間の手によって分けられた境界の、その境目は一体どこにあるのだろうか。

料理の境界
「食材」が「料理」に変わる境界線は一体いつなのだろう。
お湯を注ぐだけのインスタント食品を、料理と言えるなら料理とは一体どの動作を指すのだろうか。
焼く・茹でる・炒める・揚げる・煮る・蒸すといった工程を挟んだ瞬間に その食材は料理に変わるのだろうか。
あるいは、皿へと移し食す直前の物を料理と、とらえるのか。



時間の境界
朝から昼、昼から夜、そして夜から朝へと切り替わる境界線 は一体いつなのだろう。 時計を見て判断するのか。 空の明るさや色で判断するのか。 もしくは、人々の流れの多寡で判断するのか。この境界線は人によって自由に形を変えて存在している。 各々が考える“時間の境界線”とはなんだろうか。

他者との境界
人には誰しも他人との距離を保ちたいと感じる距離感、 パーソナルスペースが存在する。 相手との関係性、性別、文化の違いや自分自身の性格などによって、この空間の広さには差が生じる。 意識的にも無意識的にも存在するこの空間は、 目に見えるようにも見えないようにも現れる。“他者との境界線”としてこのパーソナルスペースを、どのようにとらえるのだろう。

オリジナルとコピー
写真を学ぶ手段の一つに「模写」がある。イラストレーションなどの模写はお手本となる絵を真似て描くことを指すが、写真の模写とは被写体、構図、光などを模倣して撮影することを言う。
しかし、実際には全ての被写体、構図、光を完璧に再現することはとても難しく、何を重視して再現するかという選択を迫られる。
例えば、人物の写真を模写する場合、全く同じモデルとなる人を撮影することはできない。絶えず時が流れている以上、オリジナルの写真が撮影されたときの人と模写をする時の人とは何かしらの変化がある。その場で真似をする場合なら限りなく近い模写をすることができるが、一日、一週間、一ヶ月、一年と時が経つ毎に完璧な再現は不可能とも言えるだろう。
そこで、私達6人で模写のリレーを行った。順番を決め、伝言ゲームのように写真を模写し、自分が模写した写真のみを次の人に見せる。私達が何を重要視して模写を行ったかに個人差があることで、解釈がずれていった。6人目にたどり着いた時、オリジナルの模写と言えるだろうか。



グループ展の場合、たいてい作家ごとにまとめて展示します。 この展覧会は、6名の作家がテーマを考え、テーマごとに制作した作品を持ち寄る形で、構成してあります。 とても面白い目論見です。( 扇谷 )
街に出てみると、様々な境界に遭遇する。
仕切りや線で区切られていたり、そもそも区切られてはいなくて、地図などの書類上で区切られているだけということもある。
例えば、市区町村の境界は、河川を境として決められている場合がある。
だが、河川そのものは一体どこに属しているのだろうか。
人工的な境界線は、それによって物理的に区別されているわけではなく、あくまでルールの一つである。
では、人間の手によって分けられた境界の、その境目は一体どこにあるのだろうか。

料理の境界
「食材」が「料理」に変わる境界線は一体いつなのだろう。
お湯を注ぐだけのインスタント食品を、料理と言えるなら料理とは一体どの動作を指すのだろうか。
焼く・茹でる・炒める・揚げる・煮る・蒸すといった工程を挟んだ瞬間に その食材は料理に変わるのだろうか。
あるいは、皿へと移し食す直前の物を料理と、とらえるのか。



時間の境界
朝から昼、昼から夜、そして夜から朝へと切り替わる境界線 は一体いつなのだろう。 時計を見て判断するのか。 空の明るさや色で判断するのか。 もしくは、人々の流れの多寡で判断するのか。この境界線は人によって自由に形を変えて存在している。 各々が考える“時間の境界線”とはなんだろうか。

他者との境界
人には誰しも他人との距離を保ちたいと感じる距離感、 パーソナルスペースが存在する。 相手との関係性、性別、文化の違いや自分自身の性格などによって、この空間の広さには差が生じる。 意識的にも無意識的にも存在するこの空間は、 目に見えるようにも見えないようにも現れる。“他者との境界線”としてこのパーソナルスペースを、どのようにとらえるのだろう。

オリジナルとコピー
写真を学ぶ手段の一つに「模写」がある。イラストレーションなどの模写はお手本となる絵を真似て描くことを指すが、写真の模写とは被写体、構図、光などを模倣して撮影することを言う。
しかし、実際には全ての被写体、構図、光を完璧に再現することはとても難しく、何を重視して再現するかという選択を迫られる。
例えば、人物の写真を模写する場合、全く同じモデルとなる人を撮影することはできない。絶えず時が流れている以上、オリジナルの写真が撮影されたときの人と模写をする時の人とは何かしらの変化がある。その場で真似をする場合なら限りなく近い模写をすることができるが、一日、一週間、一ヶ月、一年と時が経つ毎に完璧な再現は不可能とも言えるだろう。
そこで、私達6人で模写のリレーを行った。順番を決め、伝言ゲームのように写真を模写し、自分が模写した写真のみを次の人に見せる。私達が何を重要視して模写を行ったかに個人差があることで、解釈がずれていった。6人目にたどり着いた時、オリジナルの模写と言えるだろうか。



グループ展の場合、たいてい作家ごとにまとめて展示します。 この展覧会は、6名の作家がテーマを考え、テーマごとに制作した作品を持ち寄る形で、構成してあります。 とても面白い目論見です。( 扇谷 )